平和の広場

平和の広場は、茶の文化館のすぐ隣に位置します。緑に囲まれた開放的な広場は、人々のくつろぎの場でもあります。ベンチに腰掛けて自然の音を聴いたり、夜には美しい星空を眺めたりすることができます。

広場の奥には三角の塔が立ち、その頂点には小さな炎が揺らいでいます。平和の塔と平和の火です。

平和の火とは、1945年(昭和20年)8月6日、広島を焼き尽くした原爆の火です。山本達雄氏により持ち帰られた原爆の残り火が、現在では平和のシンボルとして、平和の塔に灯し続けられています。

星野村で生まれ育った山本氏は当時、広島県豊田郡大乗村の暁2940部隊で任務に就いていました。その任務中の8月6日午前8時15分、原爆が投下されました。司令部に向かう汽車に乗車していた山本氏は幸いにも無事でしたが、その後市内の惨状を目の当たりにします。山本氏には、市内で書店を営む叔父がいました。父親代わりに自分を育ててくれた存在であり、安否が気掛かりでした。必死で叔父を探しましたが、終戦を迎え、復員命令が出され、叔父の行方はわからぬままとなりました。9月16日、最後の別れとして訪ねた書店の焼け跡、その地下壕で見つけたのは、くすぶり続ける原爆の残り火でした。山本氏はこれを叔父の遺骨代わりに、と持っていたカイロに移し、星野村へと持ち帰りました。

以来、原爆の火は、山本家の仏壇に灯され、火鉢やカマドにも移され、23年間灯し続けられました。1966年8月6日、この火のことが朝日新聞に掲載され、多くの人がその存在を知ることとなりました。そして1968年8月6日、火が山本氏から星野村へ受け継がれ、星野村役場に建立された平和の塔に灯されました。

星野村ではそれから毎年、平和祈念式典が開催されています。1995年には平和の広場に新たな平和の塔(彫刻家横沢英一氏による設計)が建設され平和の火が移されるとともに、福岡県原爆被害者団体協議会原爆死没者慰霊の碑が建立されました。平和祈念式典の際には、平和の火と慰霊碑の前で星野中学校全校生徒により「この灯を永遠に」(安藤由布樹氏作曲)が合唱され、各地からもメッセージが寄せられます。

Last Updated:
2022-06-20
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